二の宮には神田五郎宗次公をお祀りしてあります。

先に神功皇后が住吉三神を鎮祭された御社も、その後数百年も経って社殿さえもわからなくなっていたとき、宗次公(当時の地頭)はある夜、神夢を見ました。

すなわち、神様が夢枕に立たれ、「海浜に至り、波の上に宝鏡のあるを取りて祀れ」というお告げをいただいたのです。

公が早速海浜に行ってみると、波間に箱(筐(きょう)というもので、竹を編んで作った四角な寵)が一つ浮かんで来ていました。

それを取って開いてみると、それは実に宝鏡でありました。公は「これまさしくその昔、神功皇后が捧げられし神鏡ならん」と神威を畏み、このことを時の帝の孝謙天皇に奏聞されました。
朝廷ではその御神徳をお感じになられ、詔命を降ろして「唐津大明神」との名を賜れたのです。

その後、幾星霜を経て、文治2年(平家滅亡の翌年)にその子孫の神田広氏に至り、社殿を再建して祖先宗次公の功を追慕し、その神霊を合祀して二の宮としたのです。

これが二の宮御祭神の由緒です。
つまり、神功皇后が住吉三神をお祀りされた松浦の海浜の御社、すなわち唐津神社起源の御社がすたれ果てて断ち消えようとするときに、それを蘇らせた神田五郎宗次氏の大功績とその尊い心構えを追慕して、二の宮の神としてお祀りしたのです。

注1)このときの松浦の海浜が現在の西の浜と思われます。

著:戸川 鐵
(一部抜粋 「唐津神社の神祭と曳山に関する抄録」より) 唐津曳山を研究するための資料
※写真撮影:鶴丸 誠 2017年11月3日