唐津神社は天平勝宝7年(755)に建立されました。
「唐津大明神」の神号をいただいたのは天平勝宝7年9月29日であり、第46代孝謙天皇の御代で、奈良時代です。

御神祭は一ノ宮「住吉三神(海上安全と禍事清祓の御神徳)二ノ宮「神田宗次公」「水波能女神(火伏の御神徳)」をお祀りしてあります。

一の宮が神殿の正面に、二の宮が一の宮の東側に、相殿が一の宮の西側に鎮坐しています。

そして、神社創建の日(旧暦9月29日)を祝う祭として唐津神社の御祭神が御神輿で御旅所にお渡りになる神幸祭(現在の唐津くんちの原型)が始まったのは、寛文年間(1661~1673)の頃と伝えられています。

主祭神は、一の宮にお祀りする底筒男神(そこつつおのかみ)と中筒男神(なかつつおのかみ)と表筒男神(うわつつおのかみ)の三神であり、これを総称して住吉神(すみよしのかみ)または墨江神(すみのえのかみ)と申しあげます。

住吉神社は古来航海の武神とされ、特に大阪の住吉大社は上代における海外交通の要地にあった関係から、海上守護神として朝廷から特別の尊崇を受けられ、また一般国民からも航海や漁業の神徳に対して熱烈な信仰を寄せられたものです。

また、住吉の神については前段が示すように、禊ぎ祓いの守護神としての霊徳を忘れてはなりません。

禊ぎ祓いは、ただ祭の前儀としての大切な意義をもつだけでなく、これによって生まれ変わることができるという信念が古くからあり、人はこの神様にお参りすることによって禊ぎ祓いの霊徳を蒙り、汚れを祓い清め、精神的に新生し、そして新たな意気ごみで生活戦線に立ち向かうのです。

水波能女神(みずはのめのかみ)の神様は水の神様であり、慶長7年に寺沢広高公が唐津築城に際して現在地に社地を設定し、社殿を改築し、領内の総鎮守として崇敬し、新たに火伏すなわち火防鎮護神として水波能女神を勧請したものです。その後、唐津地方は火災が少なく、大火がないのは、この神様の霊験によるものとして篤い信仰が寄せられています。

唐津くんちの起こりは、人皇第111代の後西天皇の御代の寛文3年(注2)であり、江戸幕府時代の元禄より約20年まえ(昭和45年より逆算して307年まえ)のころです。

唐津くんちは、遠く天平勝宝7年(奈良時代)に孝謙天皇から、唐津大明神の神号をいただいた目出度い誕生の日を祝うお祭りであり、始まった当時から神輿が氏子中を神幸され、氏子の町々からは思い思いの出し物が奉納されて、賑々しく行われてきました。

藩主も必ずこれに供奉して、祭の奉仕を怠らなかったそうです。
今日のような豪華な曳山は、第120代の仁孝天皇の文政2年(昭和44年より逆算して150年まえ)に、刀町の「赤獅子」が奉納されたのが初めてで、いっそう賑々しく供奉奉仕するようになりました。

それから明治9年までの57年間に14台の曳山が奉納されて、他の地には見られないほどの賑やかで豪華なお祭り行事となりました。

曳山が全部製作されて勢揃いしたのは明治9年で、15台でしたが、その後、紺屋町曳山「黒獅子」が明治22年ころ取りこわされて廃車となりましたので、現在では14台か勢揃いします。

注2)寛文3年は皇紀2323年、西暦1663年であり、唐津では大久保城主時代の初めで、忠職公の時代になります。

著:戸川 鐵
(一部抜粋 「唐津神社の神祭と曳山に関する抄録」より) 唐津曳山を研究するための資料
※写真撮影:鶴丸 誠 2017年11月3日