江川町は唐津城下の17力町の一つであり、築城時代には武士が居住する組屋敷町でしたが、後には町人も居住するようになった町です。
江川町が曳山に「七宝丸」を選んだ理由としては、江川町曳山製作関係者、つまり製作大工棟梁の田中市次正信と曳山屏風の松竹の絵の作成者である唐津藩絵師の武谷雪渓の2人が、大石町在住であったので、大石町曳山「鳳凰丸」の対の船として龍頭の「七宝丸」を製作した、と伝えられています。
この「七宝丸」は、宝珠、軍配、打出の小槌、隠れ蓑(みの)、宝袋、勾玉(まがたま)、一対の巻物の七つの宝物をもった、龍頭と火炎が特徴の船の曳山です。本格造りのこの曳山「七宝丸」か明治9年にできる以前には、平松文書(安政6年)にも書かれているように、「赤鳥居」と呼ばれる仮造りの「走り山」の時代があり、それは一の宮に続いて、いちばん先頭で曳いていたことが判っています。
現在の江川町曳山の「赤采配」は、この「赤鳥居」にちなんだものであり、他町にはない江川町独特のものとなっています。

著:戸川 鐵
(一部抜粋 「唐津神社の神祭と曳山に関する抄録」より) 唐津曳山を研究するための資料
※写真撮影:鶴丸 誠 2017年11月3日