大石町曳山「鳳凰丸」は、細工人永田勇吉と塗師小川次郎兵衛か中心となって、弘化3年に1750両をかけて製作されました。
前年に製作された魚屋町曳山「網」が海の幸であるのに対して、鳳凰を山の幸として考えたことは至極当然であったでしょう。
「鳳凰丸」を造るにあたっては、道路を曳き廻るときの障害などを考えると、多大な杞憂があったにちがいありませんが、敢えて京都祇園祭の船鉾を摸して造られたようです。
船の首部に鳳凰を型どったものを造り、それを胴体と結合させて御座船を造ったのでしょう。
この曳山は他の曳山とちがって、ほとんどが木組みと木型を中心とし、それに紙を張って一閑張りで仕上げたものなのです。
当初は船体も現在より長く、重量も重かったので、浦浜の砂地には行けず、その入口あたりに据えたままでした。
近郊からの参詣人は、この曳山を明神様と思いこんで賽銭をあげて拝んでいたということです。
(古老談、および「曳山のはなし」(古舘正右衛門著)より)

著:戸川 鐵
(一部抜粋 「唐津神社の神祭と曳山に関する抄録」より) 唐津曳山を研究するための資料
※写真撮影:鶴丸 誠 2012年11月3日